挨拶の雑感

  • 意識

何時頃からだろう?
挨拶という行為を意識する様になった。
そんなに昔では無い気がする。
自分が住む世界が広がっている事もあるだろう。
多種多様な人とめぐり合う機会も増えている。
多種多様な挨拶のあり方も必要と言う事なんだろうか?
以前は挨拶なんて空気みたいなモノだった様な気がする。
自然に声を掛けて、当然の様に返した。
家族・同僚・知人に限った事じゃ無い。
初対面の人にも暗黙の挨拶の仕方が有った様な気がする。
不思議なもので挨拶を意識すると、妙にぎこちなくなってしまう。
タイミング・声の大きさ・トーン・笑顔・・・。
果たして挨拶はうざいモノになりつつある。

  • 会社での挨拶

正にそんなモノ常識以前と思われる。
が、危うい。
ここ数年、会社でも意識する様になってしまった。
会社での挨拶なんて「お早うございます」と「お疲れ様でした」しか無い。
この2つさえ、自然に、空気みたいに出来ない事態が起こりつつある。
何かぼそぼそっとつぶやきながら、こそこそオフィスに来たり帰ったり、
先にデスクに居て、後から来た人に顔も上げずに挨拶を返したり・・・。
きちんとターゲットを決めて挨拶しないと無視される可能性もある。
テクニックが必要なのだ。
相手が挨拶を返しやすい環境を作らなければならない。
心地よいやり取りが出来なかったりすると、小市民は悩むのである。
何か、まずかったかな?
果たして挨拶はうざいモノになりつつある。

  • マニュアル通り

勿論、全員がそんな状態だったら会社は終わってる。
特定の年代層にこう言う傾向が集まる様だ。
かの有名な団塊世代と、最近はそのジュニア世代が世に蔓延って来ている。
これが難物である。
一般的にも「人材の不良債権世代」と言われているそうだ。
企業では一般的に教育・指導が行われるが、今後多分お手上げになる。
団塊世代のジュニアだ。推して知るべし。
一般的に若手層の挨拶は、仕事の一環としてマニュアル通りと言う事の様だ。
取敢えず声だけ発しておけば事足りているはずと思っているらしい。
手は止めずにあさっての方を見て挨拶する。
小市民は相手の顔を見ずに挨拶する人に遭うとびっくりする。
「相手の顔を見て挨拶した方が気持ちが良いよ」などと言おうものなら、
「そうですか。別に私は気持ち良く有りませんが」と怪訝な顔をされる。
果たして挨拶はうざいモノになりつつある。

  • ご近所の挨拶

これが又、大変。
小市民は幼少の砌から全方位外交を躾けられた。
ご近所の人に会ったら誰彼構わず挨拶する様にインストールされてしまった。
それは最近まで大した問題では無かった。
この街に引っ越して来るまでは・・・。
前に済んでいた札幌はちょっと特別かも知れないが、フレンドリーだった。
しばれるね〜」「お晩でした〜」「ナンもナンも」人類皆兄弟。
ご近所で挨拶してシカトされるなんてこたあ無かったなあ・・・。
我が家はマンションである。
都会のマンションと言うのは近所付合いをしたく無い人が集まると聞く。
ここのロケーションは微妙だ。
田舎の中の都会か?
いろんな人が居る。
めっちゃ愛想の良い老夫婦から、元気で躾けの行き届いた子供も沢山居る。
反面、エレベーターに乗り合せても人を空気の様に扱う事が出来るヤンママも居る。
小市民は取敢えず「お早うございます」と声を掛ける。
が、動じない。
目は宙の1点を見ている。まるでこちらに気づかないかの様だ。
自分があの世から、現世を見ているかの様な錯覚に陥る。
これは芸術の域に達している。
例に寄って小市民は声が小さかったかな?とか悩む。
果たして挨拶はうざいモノになりつつある。