ラス前・神楽坂・文京界隈のこと

 【護国寺】が誕生。
号を「神齢山悉地院」と称した。
寺領は三百石を賜った。
えりゃあ広ささで・・・。
1683年、早速親子で参詣。

「はあ、ありがたや〜、ありがたや〜・・・」

以来、幕府の信仰を受けることになった。
 元禄七年(1694年)。
「綱吉」公・「桂昌院」と共に参詣。
気分が良かったんだべ。

「苦しゅうない、寺領を加増してしんぜよう・・・」

こいで六百石になった。
1697年には「観音堂」新営の幕命を受ける。
 これはえりゃあこんだった。
「観音堂」は今も残る。
もちろん「重文」指定。
その雄大さは都下随一っ!
っとNETには書いてある。
その後も親子は度々参詣。
そのたんび寺領が増える。
遂に千二百石に加増されたそうな。

「ひゃあ、相当なマザコン将軍だっただあね・・・」

  • 変遷

 宝永4年(1707年)。
護国寺】の僧正も4代目になった。
当時、「綱吉」公にはもう1つご執心の寺があった。
【護持院】っつった。
神田橋外に巨刹を構えてたそうな。
寺領千五百石。
上野寛永寺と並び称せられた巨刹だったそうな。

徳川幕府もずいぶんあっちゃこっちゃ手ぇ出してただねー」

 ここんちの僧正は茨城人。
常陸筑波山】の別院【知足院】の「隆光」僧正。
真言新義僧録。
更らには大僧正に任ぜられた。
「綱吉」公の信頼を一身に集めていた。
専ら将軍家祈願の任に当っていた。

「お寺さんも競争厳しかったかも知んにゃあなー・・・」

 享保2年(1717年)。
えりゃあこんになった。
神田橋【護持院】が火災に遭った。
巨刹は堂塔一宇残らず焼失。
その後幕命が下った。
【護持院】を【護国寺】に合伴する。

「ま、それもしゃあんめなー」

両寺領併せて二千七百石。
どんべりゃあお寺になった。
でも、明治維新で【護持院】は廃寺。
護国寺】は現存してる。