珍しくもない本の雑感55(8)

 【辺境・近境】

 「ハルピン」から更に列車で「ハイラル」へ。
この列車は「軟座の寝台」だったそうな。
中国では最高の完全予約制コンパートメントである。
それまでと比べてずいぶん快適だったらしい。
 トイレに立ってる間に席を奪われることもない。
子どもが床でおしっこすることもない。
とりあえず寝られたそうだ。
ただ、トイレはだんだん壊滅的状況になってったらしい。
 やっぱし・・・。
これも例によって諦めるしかない。
”13億の無神経”にはトイレという概念がない。
中国トイレ事情はそれこそ惨憺たるモンである。
それだけで本が1冊書けると思う。

 「ハイラル」からは「ランクル」に乗り換える。
ここから更に220kmのドライブ。
やっと「ノモンハン村」に到着である。
220kmっていうと、東京から浜松っくらいの距離だそうだ。
日本軍の兵士はこの距離を完全武装で歩いた。
すごい体力である。
 何もないところだった。
見渡す限りの草原で、すごい数の虫が襲ってくる。
”ハエ、ハエ、カ、カ、カ、キンチョ〜ル・・・。”
古いか・・・。
いずれにしても、そこに立つと暗澹たる気持ちになったとか。
だべな・・・。
 「ノモンハン村」で「白酒(パイチュウ)」を飲んだそうな。
65度だとか・・・。
これをメエメエ料理を喰いながら5〜6杯。
生まれて初めて意識不明になったそうだ。

 今度は「モンゴル国」側から「ノモンハン」へ。
一度、北京に戻り、そこから「ウランバートル」に飛ぶ。
飛行機を乗り換えて「チョイバルサン」ってとこに行く。
名前から察するに虫は少なそう・・・。
 そこからジープで「ハルハ河」まで行った。
すぐ向かい側は3日前までいた「ノモンハン村」
やれやれ・・・。
でも、その遠回りで草原の広さは実感出来たという。
そりゃそーだべ。
 「チョイバルサン」から「ハルハ河」までの距離は375km。
東京から名古屋の距離に匹敵するそうだ。
ざっと10時間の悪路ドライブ。
カモシカや野ウサギ、狼なんかも沢山見かけたそうな。

  • 鉄道

 ソビエト軍は「チョイバルサン」から鉄道を敷いていた。
今はもう無い。
もちろん兵士や物資を輸送するためだった。
満蒙国境近辺まで一気に軍隊を移動出来た。
 片や、「ハイラル」から歩いて戦場に向かってた。
そりゃ、4日も5日も歩かされた兵士と差は歴然としてる。
重火器だってまったく違う。
戦う前から勝負はついてるべや。
 良く言われる「兵站(ヘイタン)」の差である。
英語で言うと「Logistics(ロジスティクス)」
どれだけ第一線の兵士が有利に戦えるかを考える。
食糧、武器をふんだんに補給する。
 片や、精神論と竹やりで戦えると思い込んでる。
赤子の手をひねるみたいなモンだべ・・・。
でも、近代国家から見るとその方が不気味かも。
国民全員が何か怪しげなカルト集団みたいな・・・。

 日本って国は「ロジスティクス」に無関心で有名である。
これは現代社会でもまったく変わっていない。
島国独特の感性なんだべな・・・。
ロジスティクス」なんて発想が浮かばないんである。
仕事がら、ついチカラが入っちゃう。
 「ロジスティクス」のない戦略って楽ではある。
”行け行け!どんどん!特攻隊精神だあ〜っ!”
これって何も考えてないのと同じだべや。
今の日本にぴったりの風潮ではある。
 ヨーロッパと極東の両方で戦っていたソ連とは雲泥の差だった。
ノモンハン」戦争終結直後に、ソ連ポーランドに侵攻。
1945年5月にはドイツを降伏させた。
そして、その3ヵ月後の8月には満州に侵攻した。
ソ連には何の不思議もないことだった。
ロジスティクス」を考え抜いてたから・・・。

  • 激戦地

 モンゴル軍人に少なく無いカネを払って案内させた。
それが一番、確実な方法らしい。
気持ちは良くないだろうが、トラブルは少ないべな。
当地にすればいいアルバイトになるんだべ。
 でも、案内は要領よくって大正解だったらしい。
一番の激戦地の跡に案内された。
行ってみると眺望の違いに唖然としたそうだ。
ソ連・モンゴル軍側は高い台地に、トーチカを用意した。
対する日本軍は谷間のような低地だった。
台地の上からは20km先までくっきり見渡せる・・・。
2万人もくっきり見えたんだべなあ・・・。
 跡地には砲弾の破片や、銃弾や、不発弾なんかが散らばってる。
著者はその真っ只中で、しばらく口がきけなかったそうだ。
死体こそ無く、血こそ流れていない。
でも、そこには戦争が手つかず状態で散らばってる・・・。

  • ”揺れ”

 その夜、著者はホテルで”振動”を感じて飛び起きた。
部屋全体がシェーカーで振られてるみたいな”揺れ”だった。
かろうじて部屋の電灯をつけると”振動”はやんだ。
何も揺れてはいなかった・・・。
 時計は2:30。
恐怖で身体の芯まで冷たかった。
隣の「松村さん」の部屋に行って朝を待った。
東の空が白んで来て、ようやく眠ることが出来た。
不思議な体験だった。
 時間の経過とともに、著者はこう考えるようになったそうだ。

その”振動や闇や恐怖や気配”は、外部から突然やってきたものではなく、むしろ僕という人間の内側にもともと内在したものだったのではなかったかと。
”何か”がきっかけのようなものをつかんで僕の中にある”それ”を激しくこじ開けただけだったのではないかと。

どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。
狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうかと。

 何ともディープな旅である。
恐いもの見たさで、行ってみたいような気もする。
でも、まず可能性は極小だんべな・・・。
続きは又・・・。