珍しくもない本の雑感49(3)

 【サイレント・マイノリティ】

 「アテネ」のこってある。
ギリシャの「アテナイ」は民主主義の元祖って事になってる。
この「アテナイ」にも、反民主主義者はいた。
こういう少数派の意見を聞くのも面白い。
それこそ民主主義の誠心にかなうことだべさっと言ってる。
もっともだ・・・。
 曰く、

世界中の思慮深き人はみな、民主主義の敵である。なぜなら、思慮深き人々の特質が、首尾一貫した思想にあり、不正を憎むことにあり、改善へのたゆまない努力にあるとすれば、大衆の特質は、無知にあり、無秩序にあり、優れた者への嫉妬にあるからである。貧困は不名誉な行いに走らせ、教育の欠陥は、俗悪と無作法をはびこらせる。そして、大衆は常に多数なのである。

このような人々が大半を占める国家は、理想的な国家とは言えないであろう。ところが理想的な国家でないからこそ、民主主義を守るには最適なのだ。

大衆は、善政下での奴隷よりも、悪政下の自由民であるほうを選ぶものだ。

 感心してしまった・・・。
あまりにも、その通りだべさ。

民主主義の根本原則である多数決は、50%+1票を獲得した側が、思い信ずることを強行するものだ。少数派の意見も尊重せよ、などということは、民主主義の根本原理に反することなのである。要は、昨日の少数派が明日の多数派に変われる環境が存在するかどうかで、もしも満足できる状態でそれが存在する国があってはじめて、民主主義と自由とはつながることになるのである。

思いっきり納得・・・。

  • 史料

 「七生おばさん」は史料についてもちょっとうるさい。
当然と言えば当然かも・・・。
史料研究は「塩野」作品の原点。
このヒトの作品の生命線と言っても過言じゃないべ。
一家言あって然るべきかも・・・。
 史料にも”信用できる史料”っとか”良心的な史料”があるそうな。
世に、そう評される史料には最低条件がある。

    1. 真物であること。つまり誰かが偽造したものでないこと。
    2. いつ、どこで、誰が、何をしたか、について、正確に記述されていること。
    3. なぜ、と、どのようにして、が、客観的に記述されていること。

 この内、3番を知るのは容易なこっちゃない。
警察だって、昨晩の”なぜ”と”どのように”を捜査するのは楽じゃない。
これが一番大変な作業である。
でも、これなくして、歴史を読んだり書いたりする楽しみはない。
おっしゃる通りだべさ・・・。

  • 「現場証人」

 「七生おばさん」が例を挙げてる。
話題になった「ヒトラーの日記」なるものは1番で失格。
もし、ホンモノだったら第一級史料だった。
ホンモノだったら、2番も楽々クリア出来た。
でも、多分3番はダメだったとか・・・。
チャーチル」の「第二次世界大戦」と同じっくらい不正確だったべと・・・。
 ならば、第三者の客観的な記述を重視する?
それも又、難しい。
第三者が客観的に正確な記述をしたと誰が保証できるか?
第三者でも、いかに真実を語ることが難しいか・・・。
芥川龍之介」の「藪の中」で良くわかるとか・・・。
まだ、読んでないんだけど・・・。
 それでも、「現場証人」の記録は第一級史料とされるそうだ。
何故か?
ニンゲンは真実を語ることは難しい。
でも、100%嘘を語ることもなかなか出来ない・・・。
っという判断らしい。
”なぜ”と”どのように”について真実を知ることは難しい・・・。

  • ダチ

 「七生おばさん」が如何に多くの史料を漁ってるか・・・。
そりゃ、想像を絶する。
イタリア中の古文書をあたったんじゃないべか・・・。
大変な取材パワーだと思う。
それが短編集のいたるところに見え隠れする。
 「マキァヴェッリ語録」って本も書いてる。
ま、面白いかどうかは別としてこの本もすごそう・・・。
作品っていうより、研究の成果って感じ・・・。
こいつを目の前にすると、ちょっとたじろぐ・・・。
 その「マキァヴェッリ」のダチが紹介されてた。
「フランチェスコ・グィッチャルディーニ」っとかいう舌を噛みそうな名だ。
マキァヴェッリ」と同じ官僚だったそうだ。
それもバリバリのキャリアだったとか。
でも、書き物はイマイチ売れなかった。
マキァヴェッリ」はノンキャリだったけど、書き物は売れた。
売れたどころじゃない。
政治哲学の古典として確固たる地位だんべさ。

  • 「覚え書き」

 その「ぐっつぁん」の書き物を紹介してる。
どっかの古文書庫で見つけたんだべ。
公表する気のない「覚え書き(リコルディ)」が紹介されてた。
公表された書き物は面白くなかったけど、これはイケてたらしい。
でも、ちょっとまわりくどいとか・・・。
 幾つかピックアップ・・・。

恩恵を受けたという記憶ほど、あてにならないものはない。だから、恩をほどこしてやった人間よりも、きみを裏切ることなど考えもできない人物のほうを、きみはあてにすべきである。人は、恩を受けた人に対してよりは、敵にしては損と思う人物のほうに、忠誠を守るものだからだ。

人間の持ちうる最大の幸運の1つは、その人が自分自身の野心や利益のためにやったことが、公共の利益のためであったと、人々が思いこんでくれることである。

もしきみが、人々から好感を寄せられたいと望むならば、なにかを依頼された時に、言下に断わってしまうようなことをしてはならない。なんとか理由をつくって、言いつくろった返事を与えておくようにすべきだ。
なぜなら、きみに依頼した人物も、もしかしたら後になって、きみの助力を必要としない事態に出会うかもしれないし、でなければ、後になって情況が変わって、きみが堂々と言いのがれをできるような立派な理由が、出てくるかもしれないからだ。
要するに多くの人間は馬鹿者だから、しばしば、口先だけの良い返事で満足するものである。それなのに、きみが、一言のもとに断わりでもしたら、ほとんど唯一の例外もなく、不快に感じ、きみに対して不満をいだくにちがいないのである。

確かにまわりくどい・・・。
続きは又・・・。