珍しくもない本の雑感48(5)

 【朝の論語

  • 「天命」

 「三十にして立つ」・・・。
「立つ」ってえのは、現実の活動の場を決定することだそうだ。
キリストが霊感を発し始めたのは30歳ころ・・・。
釈迦が大覚に到達したのも30〜35歳と言われているそうな。
偉大な研究や発明もその頃が圧倒的に多いとか・・・。
 「四十にして惑はず」・・・。
三十で立っても、まだまだ疑問が湧く。
いろんな試練も受ける・・・。
それを過ぎて、確固たる見識・信念に到達する。
これが「不惑」だべさ。
 「五十にして天命を知る」・・・。
そして、五十にもなると「天命」を知るようになる。
「天命」とは何か?
造化自体の絶対的活動である。
自分の与えられた素質・能力をどう開発するか?が「命」である。
それを知るのが「知命
知ってそれを自主的に発揮して行くのが「立命」だそうだ。
 ニンゲン、50歳にもなるとこれがわかってくるはず・・・。
っかしいなあ・・・?

 「六十にして耳順(したが)ふ」・・・。
ちょっと聞き慣れない言い回しである。
実は、内容は非常に趣の深いことらしい・・・。
これは、一切に対して無心に接することが出来るようになること。
「天命」を知るに従って、私心・私欲・独断・偏見などが無くなること。
寛容になること。
あらゆるものの存在を受容することが出来ること。
これが「耳順」だそうだ。
 何でも、あら捜しをしたり、拒否したりじゃいかんざき。
無我な気持で一切に耳を傾ける余裕、素直さを持つ。
60歳にもなれば自分自身も充実してくる。
同時に他を受け入れられるようになる。
これが「耳順」だという・・・。
 そうだべか・・・?
何となく、年々個性が凝縮されてくような気がする・・・。
まったく堪え性が無くなってきた。
どんどんガンコジジイへまっしぐら・・・。
自信ないなあ・・・。

  • 三段階

子曰く、我は生にして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして以て之を求むる者なり。

「生にして・・・」ってえのは「生まれながらにして・・・」じゃあないそうだ。
「自然のままに・・・」っという意味だとか・・・。
 古人はヒトの能力を三段階に分けたそうだ。

    1. 「生知安行」・・・自然にすらすらと、大した努力を要せずにできる
    2. 「学知利行」・・・努力すればどしどし進む
    3. 「困知勉行」・・・ねじり鉢巻でうんうん苦しんでやっとできる

 どちらにしても結果はおんなじ・・・。
孔子」はこう言ってる。
自分はすらすらできる人間じゃない。
独り善がりにならず、先輩や歴史・伝統を愛好したい。
そして自分の頭を十分に使って研究したい。
これこそが真の聖人であり、誰でも学べば聖人になれるそうだ・・・。
”学べばっ”の話である・・・。

  • 現代文明

 「孔子」は田舎暮らしを推奨する。
確かに考えさせられる引用があった。
フランスのポール・ヴァレリーの説だとか・・・。

昔は人間の眼は1本の蝋燭で満足していた。その頃の学者はゆらめく貧弱な光で平気で読み書きした。しかるに今日の人間は五十燭・百燭の光を必要とする。
また昔は馬で走る速さで満足していたが、今日では急行列車もまだ遅く感じられ、電報がじれったいのである。
また耳はオーケストラの全音量を要(もと)め、ひどい不協和音を受け入れ、貨物自動車の轟き、機械の叫びや唸り声等になれて、それらの騒音が音楽界で演奏されることをさえ望むのである。
また不眠症の流行が著しく、世界にもはや人工的な睡眠しかできない人間が何と多くなったことであろう。

まったくその 通りだんべ。
不協和音じゃあないけど、「ROCK FUZIYAMA!」は必ず見てる。
まさにキカイ(ギター)の叫びである。
 まだ続きがあった。

また事件といふものが、今日では一種の食物として要求されており、その味つけがまだ足りないことを始終不満にさえ思われておる。
例えば朝起きて世界に何か大きな不幸が起こっておらないと一種の空虚を感じて、今日の新聞には何もないなどといふ。
そういう事実から、人間の感覚が現代においては頽廃しつつあることを推知することができる。

言えてるなあ・・・。
事件の刺激はどんどん麻痺してる。
今や、殺人事件なんて日常チャメシゴト・・・。
もう、後戻りは出来ないんだべなあ・・・。

 古来、何故「論語」と呼んだか?
いろいろな説があるらしいが、最も穏当なのはこれらしい。
孔子」が亡くなった後、門人が集めて論撰したから・・・。
どういう門人達か、ってえと又諸説あるらしい。
時を経るに連れて、何編か追加されたという説もある。
 ま、い〜じゃん。
論語」を以って心を修めた著名人もいる。
論語」を以って事業を成し遂げた経済人もいる。
エラいヒトにはかなりポピュラーになってるみたいである。
 同時に「論語読みの論語知らず」って言葉もある。
ヒトは自分自身の内容程度しかモノを理解することができない。
今日のヒトビトはあまりにも自分の内容を棚上げしてる。
雑駁な外物に己を支配され過ぎる。
”我々は心を込めて愛読する書物を持つ事が大切だ。”
っと「安岡会長」は結んでいる。
 これが昭和37年の話である。
今から44年前・・・。
この当時の現代人って、今はどうなっちゃってんだべ・・・?