珍しくも無い本の雑感39(2)

 【母への詫び状】

 作家の父親を持つって事を想像しちゃう。
ま、そんなヒトそう多くはいないべな・・・。
何か違う雰囲気である。
当然、普段から言葉を大切にしてる。
さすがにいい事言うなあって思う。
 印象に残ったセンテンスを幾つか・・・。

【娘「咲子」への文章指導】
「感動だけで書いてはダメだよ、何でもかんでも書いてはダメ。感動から出発してそれを整理し、次に、糸くずまで捨てるぐらいの気持ちで思い切り削る・・・。最後に、その中から絹糸1本だけを引き抜くのだよ。すると研ぎ澄まされた何かが見えてくる。何を書くのかが見えてくる・・・」

さすがと言うか何と言うか・・・。
言葉に重みがあるべや。
 もう1つ。

【娘「咲子」への文章指導Ⅱ】
「チャキ(咲子の愛称)、文学作品はエターナルでなければならないよ。あの作品をもう1度読んでみよう。読んだ結果、また新しい感動が伝わる作品。それがエターナル性のある魅力ある作品というわけだ。お父さんの作品も、そうありたいと思い、書きつづけている・・・。人間も創だよ,エターナルでなければ魅力があるとはいえない。いつまでも人の心に残るような・・・。あの人、今ごろどうしているのかな、会いたいな、そんな風に思われる人間がエターナル性のある人だよ・・・」

 こんなセリフを吐ける父親ってえのもそうはいないべ。
ちょっといいかなっとも思う。
でも、ずっと傍にいたらうざいかも・・・。

  • 「奇跡の赤ん坊」

 著者が「流れる星は生きている」を読んだのは私立中学受験の頃。
ってえ事は12歳っくらいだべか?
デリケートな年頃でもある。
そりゃ、創作とは思えないべな・・・。

< ・・・私は牛車の後ろにぶら下がるうようにつかまって引きずられていった。2人の子供は昨夜よく眠れたのか今までになく元気であった。
(よかった、2人の子供が助かれば)
私はかすかな明るさを感じていた。
   ・・・(略)・・・
 背中から咲子を下ろして乳をふくませたが、どうしても乳が出ない。でも吸う力はまだ強く、痛いほど乳房を吸っている。何かやらねば・・・、私は這うようにして農家へ行ってマクワ瓜を2個買って来た。
   ・・・(略)・・・
(この子はまだ生きる力があるんだわ)
 それが私たち一家4人にとって、幸福だとは必ずしも思えない。私には平壌をたってから、頭の底に絶えずこびりついて取れないものがある。
「藤原さん、2人の子と1人の子とどちらが大切なの、あんたは」
 埼山さんのいった言葉である。
「2人の子も1人の子も大事よ」
 私はそう自分の心に答える力が今はない。正広と正彦を生かすために咲子を犠牲にしなければならないという、理屈ははっきりわかっているが、眼の前でマクワ瓜を音をたてて吸っている幼い咲子の赤ちゃけた頭を見ると、私には咲子をどうかしようとする勇気はとても出そうもなかった>

 確かに覚えがある・・・。
こんなニュアンスが書かれていた気がする。
引き揚げの途中で、数知れない子どもが捨てられ、死んでいった・・・。
そんな環境だった。
著者は「奇跡の赤ん坊」になってしまっていた。

  • 後遺症

 正確には記憶にないはず・・・。
でも、引き揚げて来た後の後遺症は強烈だったようだ。
単なるトラウマとかっていうのとちゃう。
今流に言えばPTSDの世界かも・・・。
 4歳の時に家族で箱根に旅行に行ったとか。
その時の著者の発言。
「咲子にはもうこんな楽しいことはないだろう・・・」
っと泣いたとか・・・。
 父親は青ざめたそうだ。

「この子はうまく育てなければならない、栄養失調の体の回復は勿論だが、心の問題もだ・・・。いいようにも、悪いようにもなる・・・」

 結構、大変な思春期だったようだ。
腫れ物に触るような父親、毅然としたスタンスを貫く母親・・・。
母親はよく「苦労して咲子を連れ帰ったのだよ」と言う。
著者とは言い合いになる。
「親が子を育てるのは当たり前でしょ。なぜ手柄ばなしのように話すの」
哀しい言い合いだべね。
 戦争は残酷だと思う。
心身ともに負わされる傷は深い。
もちろん著者も犠牲者。
敗戦の年に生まれた戦争の犠牲者だべさ。

  • 初版本

 2004年の春に著者は大発見をする。
実家の書庫である。
何かの拍子で「流れる星は生きている」の初版本を見つけた。
表紙を開くと父と母の言葉が記されていた。

「咲子へ         昭和24年9月25日
 この本は生まれたばかりで不幸の星の下を生き抜いた咲子が、まだ青白く細かった頃、書いたものです。 父
 お前はほんとうに赤ちゃんでした。早く大きくなってこの本を読んで頂戴、ほんとうによく大きくなってくれました。 母」

 父が37歳、母が30歳の時だったそうだ。
この文は衝撃的だったらしい。
強情に閉ざした著者の心臓をひと突きに刺したという。
そして自身の呪縛から解放された著者は本を書いた・・・。
何だかリュックの中で死にかけてた赤ん坊が60年ぶりに生き返ったみたいな・・・。

  • クライネシャイデック

 母「藤原てい」はご存命である。
25年前に父「新田次郎」が亡くなった後も精力的だった。
深い慟哭をはね返すような動きだったらしい。
新田次郎文学賞を設立した。
そしてスイスに「墓碑」を建てた。
スイスが大好きだった夫の為にスイス政府観光局と3年がかりで交渉したとか。
 場所はクライネシャイデック。
アイガー北壁、メンヒ、ユングフラウを望む牧草地。
銅版に記されている。
アルプスを愛した日本の作家、新田次郎ここに眠る」
 だんだん思い出してきた。
ユングフラウヨッホに行く途中の乗り換え駅だった。
抜けるような青空と純白の連山。
空気がめっちゃキレイでアルプホルンのおじさんがいて・・・。
樽をぶら下げたセントバーナードがいて・・・。
昼食でスパゲティを喰って・・・。
えりゃあ、不味かった・・・。
どうしてそこに行くかな・・・?