珍しくも無い本の雑感42(2)

 【やってみなはれ みとくんなはれ】

 「鳥井信治郎」はとにかく「陰徳」を積んだ。
無心の「陰徳」はえりゃあ「功徳」を生んだのかも知れない。
「寿屋」はまず「赤玉ポートワイン」で一発当てた。
赤ブドウ酒として不動の地位を得た。
そこで、やりたかったウィスキー造りに取り掛かった。
 有名な山崎の地を選んだ。
高温多湿の日本でウィスキーは無謀だった。
でも、奇跡的に山崎はウィスキー醸造に向いていたそうだ。
それに「信治郎」の天才的な鼻があった。
秀逸なブレンダーだったらしい。
 昭和4年に「ザントリーウィスキー白札」を発売。
でも、ぜんぜん売れなかった。
翌昭和5年には「ザントリーウィスキー赤札」を発売。
これもちっとも売れなかったそうだ。

  • 怪我の功名

 「信治郎」は窮地に追い込まれた。
業績はどん底だったらしい。
昭和6年はウィスキーの仕込みが出来なかった。
昭和7年も、8年も売れない。
いろんな事業を切り売りしながら耐えた。
 でも、売れなかった事が逆に幸いしたという。
売れなかったから、「やっぱ国産ウィスキーはダメだ!」
っという悪い印象を持たれる事がなかった。
売れずに寝かされた原酒が熟成された。
あの12年モノを生んだ。
昭和12年、遂に「角瓶」を発売した。
大成功の一歩を踏み出した。

 でも、なかなか順風満帆にはならなかった。
「角瓶」が売れ始めたと思ったら戦争に突入しちゃった。
酒どころの騒ぎじゃない。
「信治郎」の愛国心は強烈だったらしい。
戦争中は精一杯日本軍に協力した。
醸造用アルコールを燃料に転用しようとか考えてたらしい。
 そして敗戦。
日本中が焼け野原になった。
「寿屋」も全ての工場が焼けてしまった。
でも、山崎の樽だけは無事だった。
ここから又、しぶとく再生する。

  • 御用達

 「信治郎」はしたたかだった。
忍法「手の平返し」で進駐軍の指定業者になった。
「信治郎」が瓶を提げて司令部に営業に乗り込んだそうな。
「寿屋」のウィスキーは毛唐のメガネにかなった。
「寿屋」本社には将校達が出入りして毎晩ご馳走になってたとか・・・。
 次男の「佐治敬三」が接待役だったらしい。
「敬三」は内心忸怩たるものがあったらしい。
”何なんだ?オヤジの無節操は・・・?”
 後年、考えてみれば巧い手だったと思うようになった。
何でもあり、の時代だったんだから・・・。
山崎の原酒を全て接収されてもおかしくなかった。
テキは占領軍なのである。

  • カメノコタワシ

 日本人の敗戦後のショックは大きかった。
ほとんどの日本人が虚脱状態。
占領軍を見るとコソコソ逃げ回った。
占領軍と正面から立ち向かえるのはパンパンとシューシャンボーイだけ・・・。
そんな時代だった。
 ところが「信治郎」は違ってたらしい。
英語もロクに出来なくっても相手を呑んでた。
あるパーティでの逸話がある。
米軍大佐が「信治郎」に子どもが出来ないとボヤいたそうな。

「そんなもん、簡単なことでっせ」
「どうするんですか?」
「はじめにあんさんが奥さんといっしょに部屋に入ります。部屋の窓をあける。それから電気を消して、口笛を吹きまんのや」
「なるほど。それから?」
「それを合図にわしが窓から入ります」
「・・・?・・・!」

心臓がカメノコタワシ状態だったそうだ。

  • 女(おなご)

 「鳥井信治郎」は大阪商人(あきんど)だった。
カネのヒトであり、モノのヒトであり、慈善のヒトだった。
更に女性関係でも豪の者だったそうだ。
いつも10人っくらい女(おなご)がいたとか・・・。
「おなごは優しゅうしたらなあかん」が口癖だったそうだ。
 当時の社員の話が面白い。

毎日、女のところを廻りまんね。
おなごの方にしてみたら10日に1遍でっしゃろ。
そら、大事にしますわ。
男にとって、こないにええことおまへんで。
これでまた、ええ仕事がでける。
男を仕事で奮い立たせるのは、おなご以外におまへん。

 しかも素人はんには手を出さなかった。
クロウトはんを引き受けたら生涯面倒を見たという。
「男の甲斐性」っという事らしい。
宇宙の彼方の話のような・・・。
続きは又・・・。